【衝撃】大手レコード会社の「メディア戦略」がエグい!B’z「紅白成功」やZARD、大黒摩季がテレビに出演しなかった理由とは・・・

【衝撃】大手レコード会社の「メディア戦略」がエグい!B’z「紅白成功」やZARD、大黒摩季がテレビに出演しなかった理由とは・・・

【衝撃】大手レコード会社の「メディア戦略」がエグい!B’z「紅白成功」やZARD、大黒摩季がテレビに出演しなかった理由とは・・・

B’zが紅白で示した 国民的アーティストの真髄 「心細さを勇気に変える力」信じて
 2024年12月31日、第75回NHK紅白歌合戦で、岡山県津山市出身の稲葉浩志さんがボーカルを務めるB’zが結成36年目にして初出場を果たし、特別…
(出典:)
B'zのサムネイル
B’z(ビーズ)は、ギタリストの松本孝弘とボーカリストの稲葉浩志からなる日本のロックユニット。所属事務所はVERMILLION。所属レーベルはVERMILLION RECORDS。公式ファンクラブは「B’z Party」。 1988年にシングル『だからその手を離して』とアルバム『B’z
182キロバイト (19,654 語) – 2025年1月16日 (木) 02:43
なるほど、我々はまんまと戦略にハマったってことですね笑

1 湛然 ★ :2025/01/19(日) 07:07:04.62 ID:I2nX+eX49

ZARDや大黒摩季はなぜ歌番組に出なかったのか?「B’z紅白」成功を支えたビーイングの「メディア戦略」
1/16(木) 7:04 現代ビジネス 宝泉 薫(作家・芸能評論家)
https://news.yahoo.co.jp/articles/6798644d27fe6a88870510faa2fd0ecc2ff1f22b?page=1

『紅白』が面目を保った。昨年大みそかに放送された『NHK紅白歌合戦』。視聴率はともかく、話題性においては国民的歌番組としての貫禄を示したかたちだ。

その最大の決め手は、B’zの出演だろう。デビューから36年にわたり『紅白』に出ていない大物の代表格だったが、2024年は朝ドラ『おむすび』の主題歌『イルミネーション』を担当。12月25日に初出場が発表された際には、NHKのオファーがようやく実ったことが感じられた。

とはいえ、B’zのふたりには「年末年始は休み」というポリシーがあるとされ、事前収録となることが予想されていたが――。

■司会陣にも秘密の「サプライズ生出演」

別のスタジオで事前に収録したと思われる『イルミネーション』のあと、ふたりが会場に登場。2曲を生パフォーマンスしたのである。

その選曲も絶妙だった。ファンにとってのB’zらしさを一瞬で体現できる『LOVE PHANTOM』に、ファンでなくとも合いの手で盛り上がれる『ultra soul』。音声トラブルもあったが、それも含め、生ならではの一発勝負的な臨場感で会場を熱狂させた。

ちなみに、司会のひとりだった鈴木奈穂子アナが『あさイチ』(NHK総合)で語ったところによれば、このサプライズは司会陣にもまったく知らされていなかったという。

「この空白、大丈夫ですか?って言ってたんですけど、大丈夫です!って。台本のなかに空白のページがあって」

敵を欺くにはまず味方から、を実践したわけだ。B’zの出演シーンでは、視聴率も約3%上がったとのこと。今回の『紅白』は歴代ワーストだった2023年の視聴率をわずかに上回ったが、このサプライズがなければ、ワースト記録が更新されていたかもしれない。

■「露出を極力避ける」ビーイングのメディア戦略

ではなぜ、このサプライズは成功したのか。それは、B’zがいわゆるビーイング系のアーティストであることが大きい。『紅白』は昔からサプライズ的演出を繰り出してきたが、それを数年、数十年単位でやっているのがこのビーイング(現在は、B ZONE)グループの事務所かつレコード会社だからだ。

なかでも特筆したいのが、メディア露出を極力避けるという戦略。歌番組への出演はもとより、ライブもほとんど行わず、神秘性と希少価値を高める。これにより、ZARDはレジェンドとなり、初期の大黒摩季はカリスマ化した。

ZARDが9年目に抽選式で行った初ライブには1600倍を超える応募が殺到、大黒が6年目に初めて歌番組に本格的出演をしたときには、その話題でもちきりとなった。

それ以前には「ZARDの曲を歌っているのは坂井泉水ではなく、別人」とか「大黒摩季はコンピューターで作られていて、実在しない」といった都市伝説も生まれたが、それもあながちあり得ないことではない気がしたものだ。ビーイング創業者の長戸大幸が若い頃、こんな発言をしていたからである。

「たとえば十代のかわいっ娘ちゃんなんかを、これこそ本物のエラ・フィッツジェラルドだって嘘やって、エラみたいな歌を歌える40ぐらいのオバンを連れて来て歌わせて、ジャケットにはその十代のかわいっ娘ちゃんを出して『私は一切ライブ活動はしません』なんて、そこまでやったら、それもできないことないでしょう」

これは筆者が関わっていたミニコミ誌『よい子の歌謡曲』におけるロングインタビュー(1983年)での発言だ。

当時は創業6年目で、実績としては三原順子(現、三原じゅん子)が目立つ程度だったが、インタビュー担当者は長戸を大瀧詠一に匹敵する大物だと推していた。実際、長戸はこのあと、プロデューサーとしてのみならず、経営者としての手腕も発揮して「Jポップの父」と呼びたいほどの大仕事をしていくわけだ。

それを可能にしたのは前出の発言に見られるような「なんでもあり」精神、ジャンルにこだわることなく、売れたものの後追いも辞さない貪欲かつ柔軟な姿勢である。

サザンオールスターズをヒントにTUBEを作ったのを皮切りに、森高千里からZARDを、宇多田ヒカルから倉木麻衣を生み出してみせた。

(※以下略、全文は引用元サイトをご覧ください。)

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